時代を経て、
様々な歴史の場面で
みなさまと共に歩んできた路を見つめ、
未来へ向かってまた、
新しい一歩を踏み出します。
創業者である初代倉田雲平が、久留米市米屋町に家賃六五銭の小さな店を借り、座敷足袋造りを開始。祖先伝来の屋号である「槌屋」の名をとって「つちやたび」とし、家紋である「打ち出の小槌」を商標に。吊り看板の「御誂向御好次第(おあつらえむきおこのみしだい)」とは、現在のオーダーメイドのことです。
西南戦争に際して、軍用被服(足袋2万足、ズボン下1万枚など)の生産を請け負い、初めて大量生産に成功。しかし、南下する官軍への軍需品供給を行うが失敗し無一文に。
そこで倉田雲平は、足袋製造に専念し、一足の仕立てを夫婦で分業し、さらなる製法の研究を開始しました。
日本で初めて、足袋製造にミシン(ドイツ製青貝印ミシン)を導入。当時、最新型のミシンは上等な一軒家が買えるほど高価なものでした。足袋のように微妙な細工を必要とする製品は手縫いでなければならないとされていた時代に、ミシンを使用することはまさに冒険。導入当初は世評を恐れて、ひそかに倉庫の2階で作業していました。
1908年に操業を開始した白山工場は、蒸気力を動力とした織布、漂白、染色の3工場を備え一貫した品質の管理を行っていました。1910年、第二回産業博覧会にて名誉賞金牌を受賞し、大阪市東区に支店も開設。1911年には工場のミシンや裁断機に電力を利用するようになり、普及品である「いろはたび」の製造を開始しました。そして翌年、九州で最初に自動車を購入し、宣伝に活用しました。
足袋製造および研究に尽くした倉田雲平は、長きにわたる産業発展への功績により、足袋業者として初の勅定緑綬褒章を受けました。
洋服を着たことのなかった雲平は、この受賞のために初めてフロックコートを新調しました。同年、宣伝を兼ねた「つちやたび宣伝飛行大会」を主催。民間航空界の第一人者坂本寿一氏を招き、久留米練兵場にて開催されました。
合弁会社を設立後まもなく、初代倉田雲平は病魔におかされ、新社屋を見ることなく67歳で逝去。当時の九州毎日新聞は「足袋王逝去す」と訃報を掲載しました。2代目雲平は倉田金蔵が襲名。当時の東京市京橋区長崎町に東京支店を開設しました。
後に三代社長の頃、歴代社長の胸像を制作することになり、初代のものは高村光太郎先生に依頼。
当社の沿革史を見ると、依頼を聞いた光太郎氏は「この人は非常に立派な人だね。嫌いな人なら作っても仕方ないが・・・」と彫刻を引き受けたといいます。ところが昭和31年、制作半ばにして光太郎氏は帰らぬ人となってしまいましたが、弟高村周豊氏はこれを惜しみ、未完成だが立派な芸術品であるということで銅像を作成しました。
※現在、東京国立近代美術館、箱根の森美術館、久留米市役所ロビー、当社つきほし歴史館に展示しています
1918年、3代目社長に倉田泰蔵が就任。
1920年にアメリカ製キャンバスシューズを見て、布とゴム底がゴム糊で貼り付けられることを知り、日本初の地下足袋研究に着手、同時にキャンバスシューズの研究に着手しました。1922年には地下足袋の試作に成功し、翌年、日本足袋(現 アサヒシューズ)とほぼ時期を同じく日本初の貼り付け式地下足袋の生産・販売を開始しました。
しかし、1923年に関東大震災で東京支店と30万足もの製品を消失するも、震災の復旧作業での地下足袋の活用がきっかけとなり、全国へと普及していきました。
1920年から着手したキャンバスシューズの研究は、幾度にもわたって改良が重ねられ、1925年には運動靴(紐付きキャンバスシューズ)やゴム長靴製造が本格的に開始されました。
1927年に輸出用の「支那靴」「朝鮮靴」「クレープ底布靴」、国内向けの児童用「前ゴム靴」青年訓練用の「編上げ靴」の製造を開始。ペナン向けを手始めに、輸出用布靴は戦前に全盛期を迎えます。
その後、ますます輸出に力を入れ、1954年にアフリカやイラン、イラクに、1962年にはイギリス、西ドイツ、オーストラリアに進出。1928年に制定した「月星印」を掲げた運動靴は国内外に広がっていきました。また、中近東や一部の中国向け輸出品には「コウモリ印」を採用しました。
1931年に「つちやたび株式会社」となる。1932年からは「蹴球靴」「ウーラー靴(満州向け労働靴)」などの製造を開始。1934年には婦人用雨靴も製造し始めました。
しかし、輸出市場は関税障壁によりむずかしくなり1938年、子会社「国華護謨工業株式会社」を満州に設立、現地製造にふみきります。その後、現地の資源開発事業に着目し工業用ベルトなどの製造を行いました。
1937年より軍需指定工場に、翌年には軍管理工場となりました。
1939年、「つちやたび株式会社」から「日華護謨工業株式会社」に社名を変更。第二次世界大戦勃発により、ゴム履物統制令が発令され、学童用と労働用以外のゴム履物が製造中止となりました。1942年、創業以来初代社長雲平を支え、社業の礎を築いた初代社長夫人モトが他界。全社員より敬慕されていたモトは戦時下ながら社葬をもって厚く葬られました。1944年、疎開工場を久留米市郊外各所に分散設置。1945年には本社工場が被爆し、3分の1が消失してしまいました。終戦後1947年からGHQの民間貿易再開許可により、ハワイへの輸出を再開。化成品では自動車用タイヤなどを製造していました。
1949年からは「日華ゴム株式会社」に。1950年、ゴム工業技術の世界的権威であるフィリップ・T ・ギドレイ博士(アメリカ)と技術顧問契約を結び、アメリカから輸入したジャックコンベアを本社工場に導入。その後、自社設計のジャックコンベアを増設し、生産能率が飛躍的に増進しました。
その結果、生産能力は戦前の2倍に。その他にも、ラバーの加工技術を応用し、ゴム引きの布を使用したレインコートの生産を開始しました。
1950年代より当社のスポーツシューズが大きく発展していきます。
1950年、アジア競技大会出場選手向けランニングシューズ開発。
1951年、ボストンマラソン出場選手向けランニングシューズ開発。同年、日本の「マラソンの父」とも呼ばれる金栗四三氏からも高い評価をいただき、1952年にはヘルシンキオリンピックマラソン日本代表選手への商品提供をおこないました。翌年にはランニングシューズだけでなくバスケットシューズを発売。
その後もテニス、ゴルフ、野球、サッカー、登山といった各スポーツへの展開を強化していきます。これらの商品は後にジャガーシリーズと銘打たれ記録的なヒット商品となります。
同時に宣伝活動へも力を注ぎ1953年、日本ヘリコプター輸送(現全日本空輸)が新たに輸入したヘリコプター2機を借り受け、「月星号」と命名して全国各都市を訪問しました。並行して、1954年には自動車を動く看板として活用し、大型宣伝車3台とサービスカー55台が名古屋で開催された全日本広告連盟主催のアドカーパレードに集結し、2000mの大行進を行いました。
また、1956年にスウェーデン製自動ゴム加硫機を導入し、1957年にはゴム履物のJIS表示許可工場となりました。
この時期に製造された児童用の商品が現在の上履きの原型となったとされています。
南極観測隊派遣に際して製造、寄贈した特殊防寒靴は、零下50℃の厳寒に耐え、日本隊はもとより、外国隊の間でも評判になりました。「保温性・柔軟性・防滑性・耐久性」を実現するため、試行錯誤を繰り返した防寒靴は、零下50℃の低温でも硬くならない天然ゴムの長靴に、当時の新素材インナーソックスを組み合わせたもので、日本独自の技術と感性により生み出された生活必需品であり生命維持装置でした。
また、輸出面においても同年に三菱商事とアメリカ向け輸出販売を契約したことで輸出数量は増大していきました。
1959年、50年以上中断していた革靴の製造、販売を再開。軽量性、防滑性、耐久性に優れた特徴を持つバルカナイジング・プレス プロセス(加硫圧着方式)という合成ゴムを底付けする方式を採用し、頭文字をとってVPシューズと名付けました。1961年には氏家工場(のちの氏家製靴)を設立し、本格的に革靴の生産をスタートさせました。また同年には工業用ゴム製品の製造を開始しております。1962年、「月星ゴム株式会社」に社名を変更しました。
1960年代に入ると、アメリカやカナダ、アフリカ、ヨーロッパ各国に輸出を実施し、年間1000万足を突破。アメリカで発売した「ミスタースニーカー」は全米に布靴ブームを巻き起こしました。それらの功績により、ゴム事業体として初の総理大臣賞を受けることになりました。
1964年に3代倉田雲平が代表取締役社長に就任、翌年、通産大臣より「輸出貢献企業認定証」を授受。1966年にインジェクション製品の第一号「α:ジュニアレイネット」生産開始、この製法で生産される商品は優れたフィット性とクッション性を持つことから、海外では「靴下に底をつけた靴」とも呼ばれ、現在でも当社のコンフォートシューズなどに使用される技術が確立しました。そして1970年、台湾に星発ゴム有限公司を設立しました。
1971年、倉田九平が代表取締役社長に就任。月星安全コーティング(化成品)の販売開始。1972年に「月星化成株式会社」となる。同年に、ラバーインジェクションによるキャンバスシューズ製造技術が確立。1973年、韓国に信興化学株式会社を設立、創業100周年記念式典を挙行しました。
さらに同年、紳士靴のロングセラー「ミスターブラウン」が発売に。
また、時代に先駆け子どもの足の成長を考えた機能性ベビーシューズとして「チロリアンベビー」が発売されます。
1977年、ニューバランスのブランドライセンス契約。(現在は終了)倉田良平が6代目社長に就任。
その後、3代倉田雲平が7代目社長として引き継ぎます。
1978年、氏家製靴を設立、中村晴一が8代目社長に就任。1979年、村上慎一が9代目社長に。この頃より、中国での技術指導を開始しました。
1980年には超軽量を追求したスポーツシューズ「ジャガーΣ」シリーズを発売。
1981年、コンバースとトムマッキャンのライセンス契約を締結。(現在は終了)
1984年、キャンバスオールスターの年間販売数が100万足を突破。同年には、子ども靴「チロリアンキャロット」、ビジネススニーカー「ジムノ」が発売されました。
南極観測隊用防寒靴をルーツに発展したムーンスター雪寒地向け商品は「防滑性能」をひとつのテーマに研究が続けられ、1985年「スペランソール」が誕生しました。
細かなガラス繊維を地面と垂直に配向する特殊なソール成型技術により氷上での高い防滑性を実現、現在でも配合の改良や産学連携など進化を続け雪寒地向け商品としての地位を確立しています。
同年、発売からわずか5年で「ジャガーΣ」が累計1000万足を突破するほか、さらなる輸入拡大により「貿易貢献企業」として通産大臣より表彰されました。
1987年より、一般参加の絵画、写真、童話コンテスト「つきほし創作館」をスタート。
1999年まで続き、延べ8589名が参加し、岡本太郎氏が審査員を務めた時期もありました。また、高橋一敏が代表取締役社長に就任。翌1988年にはニューバランスジャパンを設立しました。
1987年、婦人デイリーシューズ「イブ」を発売。
1988年にコンフォートシューズ「スポルス」発売。翌年に登場したレディースラインは今なお続くロングセラー商品へと成長しました。
1991年、「キャンバスオールスター」の日本での販売数は1000万足に到達、1992年、「ジャガーΣ」が発売より販売3000万足を突破するなど、カジュアルシューズの分野でも発展していきました。
そして、1993年には創業120周年を迎え、コーポレートブランド、社名ロゴタイプを改定。ムーンスターのこれまでの歩みを展示する「つきほし歴史館」を創設しました。
また、同年にJリーグシューズを発売。
1994年、「米国デュポン社(現 ケマーズ社)」が開発した強力な防汚機能をもつ「テフロン(R)加工」を施したシューズの製品化に世界で初めて成功。
”汚れにくく、落ちやすい”というコピーでPRしました。
1995年には中国青島市に青島月星鞋業有限公司を設立。
さらに1996年にはテフロン加工を施した革靴の商品化に成功。
50,000kmに及ぶ歩行検証の末、1987年に誕生したウォーキングシューズ「ワールドマーチ」は1997年に日本歩け歩け協会(現日本ウオーキング協会)初の公認取得。
また、遣唐使が歩んだ道のりを辿るプロジェクト「平成の遣唐使」のオフィシャルシューズとして採用され、ライセンス事業を開始しました。
翌年1998年には「いっしょに歩いて行こうって、たしかあの時、あなたのプロポーズでしたね。」の広告が朝日広告賞部門賞を受賞。1999年、「平成の伊能忠敬・ニッポンを歩こう」協賛、国際マーチングリーグとオフィシャルサポーター契約を締結。
2001年には「アメリカ横断ウオーク2001」に協賛し、オフィシャルシューズとして採用されました。
2016年にはムーンスターワールドマーチのハイエンドモデル「プライド」がグッドデザイン賞を取得。発売当事から変わらないこだわりがシリアスウォーカーの足元を支えています。
2003年、田中久義が代表取締役社長となり、創業130周年を迎えました。
翌年、株式会社テクノ月星を設立し、化成品事業を分社化しました。
「2006年、本村郁が代表取締役社長に就任し、社名を「株式会社ムーンスター」に変更、合わせてロゴマークを改定し新たなスタートを切りました。
2007年、子どもの成長にとっての靴の重要性を考え、足型計測機「フッ撮る」による足のサイズ計測や、専門の研修を受けたスタッフによる適切な靴の提案を行う子ども靴専門店「Genki-Kids」を設立しました。
2008年、クラレプラスチックス株式会社と共同で、地球温暖化防止、CO2削減をテーマとした世界的な取組みに合わせ、バイオマス素材を使用したシューズの開発に世界で初めて成功し、キッズデザイン賞を受賞しました。
2009年、独自開発した特殊なラバー素材「パワーバネ」が誕生、2001年から続くジュニアスポーツシューズ「スーパースター」へ搭載されました。ジュニアスポーツシューズ市場の活性にともない「より速く走る」という原点に立ち返った研究の末、に開発され、「パワーバネ」を備えた商品は通常のクッション材では得られないような反発力が人気となり大ヒット商品となります。
2010年、猪山渡が代表取締役社長に就任。この年、ムーンスターの手仕事を伝える場として靴作りを焼き物の工程になぞらえた「焼き物みたいなくつ展」を出展します。その際、展示品として制作したプロトタイプが評判となり後に「SHOES LIKE POTTERY」として商品化、海外でも高い評価を得ています。
同年、直営の靴専門店「Walking Forever」を設立。
足型計測器による丁寧な計測、オーダーメイドの中敷作成まで、専門のスタッフが足や身体の不調を伺いながら、最適な1足を提案します。
140周年を機に新ロゴを制定、業界初の6ヶ月保証制度をスタートしました。
衣料品としてはじめてキッズデザイン賞で最優秀賞を受賞。厚みの違う2種類のインソールを入れ替えることによって1足でハーフサイズへの変化に対応する機能が評価されました。
1964年から定番商品として愛され続ける上履き「スクールカラーM」がグッドデザイン・ロングライフデザイン賞を受賞しました。
この年に発売された「大人の上履き」は突然の入院や室内作業などに幅広く活用され当初の想定を大きく上回るヒット商品となりました。
国内でもごく僅かな工場でしか生産することのできない加硫製法をはじめ、ムーンスターが靴作りの歴史の中で培ってきた技術や職人の手仕事を伝える商品展開を開始しました。
2015年、今日まで続けてきたムーンスターのまじめな靴作りと、ときに過剰とも表現される品質管理。履きものの歴史を紡いできたを誇りをこめ、新たなブランドスローガン「Time with pride.~ひたむきに、歩み続ける~」を制定しました。
ベビーシューズでは2008年より継続的な取り組みを行っているキッズデザイン賞で10年連続での受賞を達成しました。
2018年、MOONSTARブランドのものづくりに触れ、足や靴に関する情報を発信する拠点と位置づけ、初の旗艦店「MOONSTAR Factory Ginza」をオープン致しました。
同年、子ども達に『くつデザイナー』としての職業体験を通して、創造力や物を大切にする気持ちを育んでほしいと考え、キッザニア東京にパビリオン「くつ工場」を出展しました。
私たちは、“人、地域、文化のつながりの中で生きるコミュニティブランド”を目指しています。ものづくりの哲学を体感していただける「ALSO MOONSTAR」をはじめとする様々な場所でつながりを大切にしながら、より良い靴づくり、より良い暮らしについて考えています。